ナナ公の独り言

都内在住既婚会社員女の日記です

進化する偽善者たち

やわわんのところで、偽善者テストっていうのがあったよ。
ナナ公は考えたよ。

偽善ってなんだろう。
ニセモノの善いこと。
ほんとうはちっともそんなふうに思っていないのに、そう思っているように見せかけること?

例えば、同情なんてちっともしていないのに同情してるフリするとか?
されてるほうは、ホントに悲しいことがあるんだろうから、
見て見ぬ振りしたり、本心じゃないからと口や態度にだされないより、
頼っていいっていうだけでもちょっとは救われると思うなあ。
お年寄りに席を譲るとかね。
譲るほうがどう思っていようと、譲られるほうにとってみればありがたいことのように思う。

誰かにいいことが起きた時、ホントは「ちっ」と舌打ちしたいのに、
「おめでとう!」とか言う行為も、たいして偽善じゃないと思うんだ。
だって、いいことが起きた人にはそんなことどっちでもいいんだもんね。

それから、痴漢してみたいとか思ってるのに、痴漢は卑怯者だ!と言ってみたり、
暴露本とか暴露雑誌に興味あるくせに、害悪図書だ!と糾弾したりすること?
こういうのもまあいいんじゃないかなあ。

あとは・・・そうだな、
実は自分もひき逃げしたことあるのに、通り魔事件を嘆いたり、犯人を責めたりとか?

こーゆーのは別格だね。

だってもう偽善じゃないよ。悪だもの。

だからまあ3パターンかな?
1.気の毒な人に、同情するふりをする。
2.幸運な人を妬んでるくせに、祝う。
3.悪に興味があるのに、それを隠している。

記事を簡潔にまとめたい方向なので、結論書いちゃうと、
客観的には、3パターンとも、いいんじゃないかって思うよ。

人の心はどうしたって他人にはわからないもの。

人にわからなければなんでもいいかというわけじゃないけど、
(ええと、つくり話「転生」参照で)
自分の心で傷つくのは自分自身で、
態度や口に出さなければ、人を傷つけることはない。
偽善でも、喜ばせることができるよね。

なんだっけ、とんちのきっちょむだか一休さんの、嫁と姑の話知ってるかな?有名なやつ。
ものすごい意地悪な姑がいて、お嫁さんが泣きながら相談に来るの。
「あのばばあを殺したいので毒薬をください」って。

そんで相談されたきっちょむだか一休だかは、どろりとした液体のはいった大きな壺を渡して、
「これは毒薬のはいった壺です。毎日の食事に混ぜてお義母さんに出すといいですよ。
ただし、とっても苦いので少量ずつ混ぜてください。
つぼの中身がカラになる頃には、お義母さんはコロリと・・・」

お嫁さんは、壺を受け取りながら答えます。
「じゃあ、毎日好物のおはぎに混ぜてやりましょう。食い意地がはってるからきっと気がつかないわ」

・・・この話の結末は、みなさんご存知ですよね?

お嫁さんは毎日お姑さんに、おいしいおはぎをつくってちょっぴり薬を混ぜ入れます。
バレると困るので、お姑さんにとても優しくなり、わがままもきいてあげます。
ある日、お姑さんは泣きながら言います。
「あたしは悪い姑だった。いじわるばかりしてきてすまなかったね。あんたはこんなにいい子だったのに。これからは仲良くしようねえ」

お嫁さんは、ハッとしました。
ああ、この人も悪い人じゃなかったんだ。あわてて薬の壺をのぞきます。
大変です、もう底が見えはじめています。

お嫁さんは走って走って、きっちょむだか一休だかの家にとびこむと叫びました。
「助けてください!お義母さんが死んでしまう!」
きっちょむ(略)は笑って言いました。
「ああ、その壺なら全然毒になるものははいっていないよ。年寄りの体にはとてもいい薬草の混ぜものだよ」

お嫁さんとお姑さんは末永く仲良く暮らしたそうです。

・・・この話に夫が出て来ないのが、すっごーく気になるナナ公ですが、
多くの偽善の結末はこんなもんなんじゃないかって思うんです。

と、まあここまでが、この記事の前置きです。
ハハハ。

じゃあ、偽善が本人の心に及ぼす影響ってなんなんだろうって思ったんだよね。

免疫だと思いました。

例えば、ナナ公の場合、がんになったとき、
がんで苦しんだ人達、つまり不幸の先輩のことを思うと強くなれる。
これが偽善だよね。

だって、今までがんと闘ってきた人達はナナ公のためにがんになったわけじゃない。

ナナ公には若くして風邪ひいて3日寝込んだだけで死んでしまった友人がいるのですが、
しんどいときはいつも彼女のことを考える。

あそこで人生が終わってしまった彼女は、どんなにか悔しいだろう。
彼女に比べたら、こんなことでへこんでちゃだめじゃないか。
彼女に比べたら、生きてるだけで幸せだ。

そう、これが偽善です。

彼女のお葬式でわんわん泣いたことも、お墓参りに行って花をそえることも、
偽善じゃない。
彼女の死を悲しんだのは嘘じゃなかったよ。今でも会いたいよ。
だけど、彼女の死を私は利用してる。そこに偽善がある。

誰かの不幸を、自分が前に進む推進力に変えることは偽善のように感じます。

それでも、やっぱりそう思ってしまうことはとめられないよ。
もちろん思ってないふりはできるけど。そんなこと誰にも言わないけど。
言わないから、彼女の残された両親や兄弟はナナ公を恨まない。憎まない。
これは、偽善パターン1の同情してるフリ。たいしたことないやつ。

でもほんとはね。

死んだ彼女の手に、私は背中を押してもらっているときがあります。
ごめんなさい。

この謝罪の言葉は、こう訳することもできます。
私のために、死んでくれてありがとう。

ね?
これが偽善。いつも私が抱えている罪です。

偽善って、ヒトではなくて自分を傷つけるものなんだよね。
そしてヒトは偽善なしに進めない。ええと少なくてもナナ公は。まあ弱いってことだよね。

ブログなんてその塊だ。
人の生活や心をのぞき見して、きっと私達は前に進むんだろう。
実は比較してるんだろう。
面白いって表現で、まとめちゃってるけどさ。まさにエネルギー源。

さあ、そろそろ記事を締めますよ!

ねえねえ!それって素晴らしいよね!

自分の失敗や落ち込みが、無駄にならずすむんだよね!
よかった!
救われるよ!

ナナ公は、友人の死を踏み台にして成長してきた。
そんなナナ公を踏み台にしてくれるなら、ナナ公の罪もちょっと希釈されるように思う。

これがホントのコミュニケーションだと思う。
人類が言葉を手に入れた理由なんだと思う。
ナナ公の経験を、受けとってね。そんでみんなの経験を受け取らせてね。
遺伝子のやりとりにも似ているね。

獲得遺伝子だよ。
キリンの首が長くなるよ。

インターネットを含むメディアの発達は、まるで人類補完計画
情報を得るってことは(例えばSMに詳しくなるとかも含めてね)進化です。
私達は情報を得て進化して、
情報を発信して子孫を育ててる。

ナナ公が子供できなくても、ナナ公の独り言を読んだ人達にナナ公の遺伝子は少し残るだろう。

まあね、これも偽善っちゃあ偽善だけどさ。てへへ。