ライン 6―② 最終話
終わりのない二十五メートルをクロールで進む中、ぼくは昨日のことを思い出していた。
昨日ぼくは、陽介の病院に行ってきた。陽介の病室は個室だったので、ぼくはノックして返事を待たずに入った。
突然現れたぼくに、陽介は目を丸くした。
「よう元気か」
「・・・元気なわけないだろ」
ぼくと陽介はしばらく見つめあった。陽介は一回り小さくなったようだった。これじゃほんとに五年生みたいだ。ぼくは目の裏が少し熱くなった。
「来てくれたんだ」陽介が言った。
「うん」
陽介が見ていたのか、小型テレビの音だけが静かな室内にひびく。「あのさ」ぼくはきりだした。
「胸に耳当てさせてくれないかな」
「・・・いいよ」
陽介は、パジャマのボタンを外して、胸をはだけさせた。ぼくの体よりずっとずっと細い体に、大きな傷跡が走っている。
ぼくは、その胸に右耳を寄せた。とっくん。とっくん。とっくん。小さくてゆっくりした鼓動が聞こえる。
これが、お母さんの心臓の音なんだ。もしかしたら違うかもしれない。ただの偶然かもしれない。
でも、これは、陽介を動かして笑わせてくれている心臓の音だ。あたたかくて気持ちいいよ。
ぼくは、この間プールでおぼれそうになった話をした。死ぬかと思ったこと。死にたくなかったこと。助けに来てくれた先生までひきずりこみそうになったこと。
「あれが海だったら、オレは先生もまきぞえにしたかもしれない」
「・・・海ならおぼれなかったかもな。言っただろ?浮くって」
陽介がちょっと笑顔になった。そうか。陽介は年上じゃなくてもかっこよかったんだ。
死にたくないって思うだけで、誰かを殺してしまうかもしれない。
「でもさ、生きてて良かったよ。てゆーかさ、水の中になんで人間が入んなきゃなんねーんだよ。人間は陸上で生きるようにできてるんだよなあ」
「オレなんかは、陸の上でもいつも苦しいけど・・・」
そうだ。ぼくはやっとわかったんだ。苦しいという状態。死にたくないと思う気持ち。ぼくの水中は、陽介の日常だ。
明日、一学期最後のプールがあると言うと、陽介は「来いよ」とぼくを誘って、病室を出た。
「いいのかよ。大丈夫なのかよ」
「あったりまえだろ。まだ手術前だぜ。トイレも一人で行ってます」
振り向いた陽介の目はきらきらしていて、陽介が転校してきた日のことをぼくに思い出させた。
陽介が、ぼくを連れて行ったのは、病院の食堂だった。
別れるとき、陽介は言った。「まにあって良かった」
歩いたせいか、陽介は少し息をはずませていた。「オレ、明日アメリカに行くんだ」
「え?」
「今度はアメリカで移植なんだ。オレ、なんかめずらしい症状になってるらしい。学会モノだってさ」
ぼくは胸がいっぱいになった。もっと早く来ればよかった。
「次会うときは、オレ、ハーフかもなー」
「心臓くらいじゃ、ハーフもないだろ。でもきっとオレより下の学年だな」
「あ、そーか。ちくしょ」
ぼくは笑いながら、陽介の病室のドアを閉めた。
十五メートル。半分はきた。悪くない。顔はがぱがぱあがってるけど、体がちょっと軽いような気がする。足もまだ下がっていない。
さっきプールに来たとき、こっそりタオルの中にぼくは、小さなビンをひそませていた。食卓塩の小ビンだった。ぷつぷつ穴の開いた中ぶたは外してある。
昨日、陽介が、病院の食堂のテーブルから一個くすねたやつだ。うまくやれよ、とぼくの手に押し込んだ。
準備運動のあと、プールに体ならしに入るとき、ぼくはそっと水の中でビンの赤いふたを外した。
ここは小さな海だ。
泳ぎやすいはずだ。
ぼくは苦しい意識を、そういいきかせてごまかした。二十メートルの線が見えてきた。あの先の五メートルが越えられないんだ。
二年前、ぼくのお母さんは、ぼくが水の中にいるときに死んだ。それはきっと二十メートルの線の上に足をついてしまったときじゃなかっただろうか。その線は、三年生がスタートする反対側からは五メートルの線だ。
ぼくは、そこを、今越えた。
あとほんの一、二メートルなはずだけど、体が前に進まない。ここはぼくの知らない世界だ。苦しいよ。つかれたよ。
陽介は今、飛行機の中かな。あいつ、飛行機乗るのはじめてだって言ってた。手術に向かって飛ぶその飛行機を、いいだろーって、陽介、笑った。
ぼくたちはまだ子供で、この世界にはまだ知らない世界ばかりがあって、でもぼくは生きていきたいんだ。見えなくても聞こえなくても、前に進むしかないんだ。
いいことも悪いこともたくさんあって、でも生きていればきっとまた陽介に会える。またぼくの知らない誰かにも。苦しくても絶対に足はつかない。
そのとき、前にのばしたぼくの手が、プールの壁にさわった。
(了)
昨日ぼくは、陽介の病院に行ってきた。陽介の病室は個室だったので、ぼくはノックして返事を待たずに入った。
突然現れたぼくに、陽介は目を丸くした。
「よう元気か」
「・・・元気なわけないだろ」
ぼくと陽介はしばらく見つめあった。陽介は一回り小さくなったようだった。これじゃほんとに五年生みたいだ。ぼくは目の裏が少し熱くなった。
「来てくれたんだ」陽介が言った。
「うん」
陽介が見ていたのか、小型テレビの音だけが静かな室内にひびく。「あのさ」ぼくはきりだした。
「胸に耳当てさせてくれないかな」
「・・・いいよ」
陽介は、パジャマのボタンを外して、胸をはだけさせた。ぼくの体よりずっとずっと細い体に、大きな傷跡が走っている。
ぼくは、その胸に右耳を寄せた。とっくん。とっくん。とっくん。小さくてゆっくりした鼓動が聞こえる。
これが、お母さんの心臓の音なんだ。もしかしたら違うかもしれない。ただの偶然かもしれない。
でも、これは、陽介を動かして笑わせてくれている心臓の音だ。あたたかくて気持ちいいよ。
ぼくは、この間プールでおぼれそうになった話をした。死ぬかと思ったこと。死にたくなかったこと。助けに来てくれた先生までひきずりこみそうになったこと。
「あれが海だったら、オレは先生もまきぞえにしたかもしれない」
「・・・海ならおぼれなかったかもな。言っただろ?浮くって」
陽介がちょっと笑顔になった。そうか。陽介は年上じゃなくてもかっこよかったんだ。
死にたくないって思うだけで、誰かを殺してしまうかもしれない。
「でもさ、生きてて良かったよ。てゆーかさ、水の中になんで人間が入んなきゃなんねーんだよ。人間は陸上で生きるようにできてるんだよなあ」
「オレなんかは、陸の上でもいつも苦しいけど・・・」
そうだ。ぼくはやっとわかったんだ。苦しいという状態。死にたくないと思う気持ち。ぼくの水中は、陽介の日常だ。
明日、一学期最後のプールがあると言うと、陽介は「来いよ」とぼくを誘って、病室を出た。
「いいのかよ。大丈夫なのかよ」
「あったりまえだろ。まだ手術前だぜ。トイレも一人で行ってます」
振り向いた陽介の目はきらきらしていて、陽介が転校してきた日のことをぼくに思い出させた。
陽介が、ぼくを連れて行ったのは、病院の食堂だった。
別れるとき、陽介は言った。「まにあって良かった」
歩いたせいか、陽介は少し息をはずませていた。「オレ、明日アメリカに行くんだ」
「え?」
「今度はアメリカで移植なんだ。オレ、なんかめずらしい症状になってるらしい。学会モノだってさ」
ぼくは胸がいっぱいになった。もっと早く来ればよかった。
「次会うときは、オレ、ハーフかもなー」
「心臓くらいじゃ、ハーフもないだろ。でもきっとオレより下の学年だな」
「あ、そーか。ちくしょ」
ぼくは笑いながら、陽介の病室のドアを閉めた。
十五メートル。半分はきた。悪くない。顔はがぱがぱあがってるけど、体がちょっと軽いような気がする。足もまだ下がっていない。
さっきプールに来たとき、こっそりタオルの中にぼくは、小さなビンをひそませていた。食卓塩の小ビンだった。ぷつぷつ穴の開いた中ぶたは外してある。
昨日、陽介が、病院の食堂のテーブルから一個くすねたやつだ。うまくやれよ、とぼくの手に押し込んだ。
準備運動のあと、プールに体ならしに入るとき、ぼくはそっと水の中でビンの赤いふたを外した。
ここは小さな海だ。
泳ぎやすいはずだ。
ぼくは苦しい意識を、そういいきかせてごまかした。二十メートルの線が見えてきた。あの先の五メートルが越えられないんだ。
二年前、ぼくのお母さんは、ぼくが水の中にいるときに死んだ。それはきっと二十メートルの線の上に足をついてしまったときじゃなかっただろうか。その線は、三年生がスタートする反対側からは五メートルの線だ。
ぼくは、そこを、今越えた。
あとほんの一、二メートルなはずだけど、体が前に進まない。ここはぼくの知らない世界だ。苦しいよ。つかれたよ。
陽介は今、飛行機の中かな。あいつ、飛行機乗るのはじめてだって言ってた。手術に向かって飛ぶその飛行機を、いいだろーって、陽介、笑った。
ぼくたちはまだ子供で、この世界にはまだ知らない世界ばかりがあって、でもぼくは生きていきたいんだ。見えなくても聞こえなくても、前に進むしかないんだ。
いいことも悪いこともたくさんあって、でも生きていればきっとまた陽介に会える。またぼくの知らない誰かにも。苦しくても絶対に足はつかない。
そのとき、前にのばしたぼくの手が、プールの壁にさわった。
(了)