ナナ公の独り言

都内在住既婚会社員女の日記です

ライン 6―①

6 二十五メートル

 放課後のプールは開放されていて、生徒達でおおにぎわいだ。
 一番左のレーンは泳げない人専用で、プールの他の部分と区切られている。そこでは、ぼくみたいな泳ぐのが苦手なやつが何人か練習している。
 残念なことに、全員ぼくより年下だ。

 今年こそ二十五メートル泳いでやる。もう二十五メートルを夏休みの目標にしたくない。
「おい二十五に挑戦するやつ以外はあがれ」
と、プールサイドで男の先生がぼくたちに声をかけた。

 体育の時間だけでなく、今、二十五メートルを泳ぎきっても、記録はもらえるのだ。ぼくはプールに残った。プールには、僕のほかに三年生が二人だけだ。

「小山からやるか」
ぼくは覚えられているようだ。無理もないか。もう五年目だもんな。

「用意」ピッ!
 笛の音とともに飛び込む。
 ごぶん。少しでも距離を稼ぎたいのに、臆病な僕は飛び込み台のすぐ手前に不格好に落ちる。

 三年生は反対からで飛び込み台は使わない。あの子達とすれ違うまでぼくはがんばれるだろうか。とにかく最初の五メートルの線まで息つぎを我慢する。それが泳ぎの苦手なものの鉄則だ。
 しかし、一度でも顔を上げてしまえば、もうおしまいだ。一かきごとに顔を上げる。
 違う。上がっていない。水の中で横を向くばかりだ。水が口の中に流れ込む。消毒薬の味がする。鼻からも入る。鼻の奥が痛い。

 それでもどうにか十五メートルの線を過ぎた。三年生とはすれ違ったんだだろうか。全然わからない。肺にいった空気より、胃に流れた空気のほうが多いのはあきらかだ。苦しいよ。疲れたよ。

 二十メートルの線が見えた。あの線は・・・反対側から見ると五メートルのあの線は・・・。

 そのとき、僕の左足がなにかにひっぱられた。ぼくは水中に沈んだ。はじめてのことだった。足がつったのだ。

 助けて!光の反射と水しぶきでぼくには何も見えない。水の音が大きくて先生の声は聞こえない。

 先生がぼくを引き上げてくれたのは、一秒もかからなかっただろう。でもぼくにはとても長く感じた。死ぬかと思ったのだ。足がつくこのプールでぼくは死ぬかと思った。助けて死んじゃうよ助けて!

「大丈夫か」
 先生が心配そうに、よつんばいで動かないぼくの顔をのぞきこむ。
「また授業中にでもがんばれよ。今日は帰りなさい」
 ぼくの顔がよっぽどひどかったんだろう、ぼくは家に帰された。

 それから一週間後、一学期最後の体育の授業がきた。夏休みの目標を変えるのは今日がラストチャンスだ。もう夏休み中プールに通いたくない。

 ぱん、と先生が手をたたく。五人で一列になって、水中に飛び込む。みっともない泳ぎ方のやつもいるけど、あっち側のかべまで行きつかないやつはいない。ぼくの番が来た。
 どぼん。ぼくは、青い世界に飛び込んだ。景色が変わる。音が変わる。
 まずは五メートルまで我慢だ。