ナナ公の独り言

都内在住既婚会社員女の日記です

ライン 5―②

「オレ、心臓移植したんだ。ずっとガキの頃から、心臓弱くて、つーか全然だめで、二十歳まで生きられないって医者に言われてたんだ。助かるには移植しかないってさ。学校も行ったり行かなかったりでさ、行っても何にもできなくてさ」

「今みたいに体育だけじゃないんだぜ。授業もまともに一時間座ってられなくてさ、給食だって半分も食えねーし、ひどい時は行ったものの帰ってこれなくなっちゃったりしてさ」

「そんで、ずっとドナーの順番待ちしてたんだ。ドナーっていうのは・・・知ってるよな。透のお母さんみたいな人のことさ。順番待ちしてるってことは、つまり、」

 陽介の大きな目が、ぼくを正面から見据えた。

「透のお母さんみたいな人が死ぬのを待ってたんだ」

 ぼくは足元の歩道橋がくずれていくような気がした。

「最初、他人の心臓を自分の体に入れる、って聞いた時は、気持ち悪くてさ、そんなことするなら死んだほうがましだ、って思った。でも成長するにしたがって、オレの心臓じゃでかくなってきたオレの体に追いつかなくなってきた」

「心臓ってのは、血のポンプなんだよ。血ってのは空気を運ぶ水道だ。オレのポンコツ心臓じゃ、オレの伸びちゃった手の先とか足の先とかに、血をまわしきれなくなっちゃってさ、動けないんだ。いつも冷たくて、寒くて・・・」

「脳にもまわらないから、いつもぼんやりするし。当然息苦しいし。すっげー頭痛ひどくて、目の前が真っ暗になったこともある。目が見えなくなるほどの頭痛、わかるか。そんな地獄みたいな痛みの中で、オレさ、神様に祈っちゃったよ」

「どうか神様、オレに心臓をください、ってさ。助けてって泣いた。死にたくないって。こんなに苦しんで死にたくないって。早くオレに心臓をください、って。それはつまり、どこかのドナーが死んでくれないか、ってことだ」

 陽介は、そこまで一気に言うと、ぼくから目をそらした。

「そんで、二年前の七月、ここの病院で心臓移植したんだ」

 ぼくももう陽介を見ていられなかった。つい陽介の左胸に目がいきそうで。

「どこの誰かって、すっげー気になったけど、それは教えてもらえない規則だった。でもうちの母親が聞いたんだ。これは健康な心臓ですか、って。なにか伝染病とかにかかっていた人だったりしませんか、って。そしたら、医者が言ったよ。交通事故で亡くなった若い方のですよ、って」

 ぼくの頭の中に、二年前、気絶していた時に見た悪夢が浮かんできた。裸のお母さんが心臓を抜かれている。でも、母さんの胸から、血まみれの腕を引き抜いているのは陽介だった。

「そんで」と、陽介が続ける。声が震えている。

「退院して、また学校に行けるようになった時、この市に引っ越してきた。知らねーだろうけど、ここの病院、心臓の権威と移植の権威、両方そろっているんだぜ。学校行くのはすごい楽しみだった。透と友達になってからは、ほんと毎朝起きるのが楽しみでたまんなかった。オレさ、友達って透が初めてなんだ。透のこと・・・お母さんのこと、知らなかったから」

 ぼくと由貴の、ケンカを止めに入った時の、陽介の真っ青な顔を思い出す。

「ごめんな、透。オレ、透のお母さんが死ねばいいって思ってたやつなんだよ。中桐さんよりずっとひどいよな」

 見つめている陽介の足元に、水がぽたっぽたっと落ちてきた。陽介は泣いている。

「しかもさ、オレ、また手術するんだ。また、移植。透のお母さんの心臓、オレには合わなかったんだ。原因はわからないんだけど、もしかしたら、オレが大人になるからかもしれない。オレの体、大人になるんだ」

 悟の声変わりは、二年前、あの夏だった。悟は中一で、今の陽介と同じ年だった。

「オレさ、大人になりたい。透に嫌われても大人になりたい。オレが大人になりたい、ってことは、また誰かに死んでくれ、ってことだ」

「陽介」ぼくは途切れそうな小さい声で聞いた。

「手術っていつ?」
「まだわかんない。とりあえず入院する。準備もあるし、もうオレ、学校いくの限界だし」

 そっと目をあげて見ると、陽介の顔は青くて小さく見えた。

「それに、オレが手術を受けるってことは、つまり」
誰かが死んだ、ってことで、そんなのいつになるかわかんない。そういうことだ。ぼくは陽介の胸を見た。

 このシャツの下に、お母さんの心臓がある。

 ぼくが見つめているのに気がつくと、陽介はかくすように、左胸に手をおいた。
「入院は明日、するんだ」
「急だね」
「うん」陽介はくるりと、背を向けた。
「もしオレのこと許せたら、見舞いに来てくれよな」

 陽介は、ゆっくり歩道橋を降りていった。
 
 ぼくは、陽介を許せんるんだろうか。お母さんの死を願っていた陽介を。お母さんの心臓を胸にしまっている陽介を。